昭和15年(1940)に小林機械製作所社長 小林忠蔵氏の自宅として建てられました。
小林忠蔵氏 (昭和40年(1965)4月7日両毛新聞より抜粋)
明治33年(1900)父業の鉄工業を継ぎ、昭和12年(1937)県鉄工機械組合理事に就任、同13年(1938)小林機械製作所に就任以来、国内はもとよりアメリカ、ソ連、東南アジア、各国に広く繊維機械を始め各種機械を輸出するなど”日本の小林マシン”の名を世界に広めた。
同時に業界、地域社会の発展、司法保護運動、社会福祉運動などにも献身的な努力をかたむけ、昭和14年(1939)司法保護司拝命、以来足利市議、足利鉄工協組理事長、足利熔接協会長、県経済復興綜合計画審議会専門委員、県中小企業振興対策委員、日本繊維学会関東支部評議員、足利商工会議所会頭、労基協会長、宮家裁調停委員、足利市工場誘致審議会委員、足利青年申告会長、同法人会長、足利学校史跡委員、足利労働青少年補導連絡協会員、県企業地振興対策審議会委員などを始め数々の重職を歴任した。
この間、全国保護司連盟会県労基局、宮地裁、足利同胞援護会々長、県警、法務大臣、日商会頭など各界からその功績に対し数々の感謝上、表彰状を受け、昭和34年(1959)には総理大臣から藍綬褒章を受けた。
卓抜した事業的手腕の持主で、豪放らいらくな性質な反面、温厚篤実な人柄の人として知られ、多年にわたり私財を投げうって社会事業、犯罪者の更生保護事業に挺身した。昭和40年(1965)勲五等双光旭日章授与。 享年75歳。
小林機械製作所 (昭和37年(1962)12月15日発行「つちおと」小林機械製作所社内報、昭和45年(1970)創業100周年冊子より抜粋)
明治3年(1870)、伊勢町内に小林松五郎氏が創業。精密機械殊に繊維関係の機械の制作を業とした。
昭和13年(1938)12月13日株式会社に改組し、忠蔵氏が就任。その後、第二次世界大戦となり、世をあげて軍需品の生産に転換の余儀なきに至り、中島飛行機の協力工場となり、航空機関係品の製作をした。
終戦となり、昭和21年4月平和産業への復元許可を得て、染色整理仕上機械を製作。その後織物の精錬、漂白、染色、捺染、整理加工用諸機械、樹脂加工全装置と共にゴム、ビニール、各種レザー製造加工機を含め広い意味の仕上機械を製作した。